上方独自の判型「中判」の意義――天保の改革後に生まれた小さな名品

天保の改革で中断された役者絵の出版は、再開後、大坂では大判から中判へと姿を変えました。大判を出し続けた江戸とは大きく異なる、この「中判」にはどのような意味があったのでしょうか。

After the Tenpo Reforms, Osaka actor prints shifted from oban to the smaller chuban size, unlike Edo. Recent research links this change to new ways of production & sales.

■ 大判から中判へ / From Oban to Chuban

大坂の役者絵は、細判から文化9年(1812)ごろに大判となり、文政末から天保期にかけて芸術的な頂点を迎えました。しかし天保の改革で出版が中断され、弘化4年(1847)ごろの再開後は中判が主流となります。ただし中判は改革後に突然生まれたわけではなく、天保9年(1838)ごろから中判大首絵が継続的に出版されていたことが確認されています。

判型おおよその大きさ上方での時期
細判約33×15cm寛政~文化前期
大判約39×26cm文化9年ごろ~天保期
中判約26×19cm(大判の約半分)天保期に登場、改革後に主流

■ 版元印が語るもの / What the Seals Reveal

大判期の役者絵では、版元印は版木に彫られて摺られるのが原則で、版元が制作から販売までを担っていました。ところが天保期の中判には版元印のないものが多く、あっても朱や墨で押された印がほとんどです。これは、版元が制作に関わらず、摺り上がった作品を仕入れて販売していたことを示すと考えられています。

こうしたことから、中判は大判を出版する権利を持たない者が役者絵を出す手段として生まれ、彫師や摺師などの職人が制作・販売に深く関わった判型であったと考える研究があります。

■ 小さな画面の緊張感 / Tension in a Small Format

画面が小さくなったことで、上方浮世絵は新たな魅力を得ました。胸から上を大きく描く中判大首絵では、役者の視線と表情が画面に凝縮され、金属粉などを用いた丁寧な摺りと相まって、小さな画面ならではの緊張感が生まれています。

  • 判型の寸法は目安で、作品によって多少の差があります。
  • 中判は二枚続・三枚続で一場面を構成するものも多く、組み合わせて鑑賞するとより楽しめます。

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