上方浮世絵の歴史――寛政3年の流光斎から明治の芳瀧まで

上方浮世絵の歴史はおよそ80年。その間に判型や版元、絵師の顔ぶれが大きく移り変わりました。ここでは時代を5つに区切って、その流れをたどります。

This article traces the roughly 80-year history of Osaka prints, from Ryukosai in 1791 to Yoshitaki in the Meiji era.

■ 前史:肉筆浮世絵と絵本 / Prehistory

浮世絵の源流は、安土桃山時代から江戸初期にかけて京都で描かれた風俗画や四条河原図などの肉筆画にあります。上方では役者を描いた絵入りの本(役者絵本)も出版されており、こうした土壌の上に錦絵が生まれました。

■ 草創期:寛政~文化前期 / Early Period (1791-1812)

現在確認されている大坂最初の錦絵は、寛政3年(1791)11月、中の芝居で上演された『仮名手本忠臣蔵』に取材した、流光斎如圭の細判役者絵とされています。江戸で錦絵が生まれた明和2年(1765)から四半世紀後のことでした。

寛政5年(1793)ごろから文化13年(1816)までは、役者似顔の版権を持っていた版元・塩屋長兵衛(塩長)が役者絵の出版をほぼ独占しました。この時期は細判が中心で、流光斎や松好斎半兵衛らが活躍します。

■ 隆盛期:文化・文政期 / Golden Age (1812-1830)

文化9年(1812)ごろから判型が大判となり、役者絵はより広い画面を得ました。さらに文化13年に塩長の独占が崩れると、多くの版元が参入して出版量が増え、芸術性も高まっていきます。春好斎北洲、芦国、寿好堂よし国ら多彩な絵師が登場した、上方浮世絵の華の時代です。

■ 円熟期:天保前期 / Maturity (1830-1842)

文政末から天保期にかけて、大坂の役者絵は一つの頂点を迎えます。春梅斎北英、貞升、初代長谷川貞信らが、金銀摺や空摺をふんだんに用いた摺物風の豪華な作品を生み出しました。

■ 中判期から明治へ / Chuban Period to Meiji

天保の改革で役者絵の出版は中断され、弘化4年(1847)ごろに再開されます。再開後の大坂では中判が主流となり、弘化・嘉永期の上方浮世絵界は五粽亭広貞がほぼ一人で支えたといわれます。幕末から明治にかけては一養斎芳瀧らが活躍し、やがて写真や新しい印刷技術の登場とともに、上方浮世絵はその役目を終えていきました。

時期年代の目安おもな出来事代表的な絵師
草創期寛政3年~文化8年最初の錦絵、塩長の独占、細判中心流光斎如圭、松好斎半兵衛
隆盛期文化9年~文政期大判化、独占の崩壊、版元の増加春好斎北洲、芦国、寿好堂よし国
円熟期天保前期摺物風の豪華な役者絵春梅斎北英、貞升、初代貞信
中判期弘化4年~幕末改革後の再開、中判が主流五粽亭広貞、貞芳、芳雪
終末期幕末~明治初期新技術の登場で衰退一養斎芳瀧、二代目貞信
  • 年代は研究によって前後することがあります。ここでは一般的な目安として示しています。
  • 判型の変化は、作品の制作年代を推定する手がかりのひとつになります。

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